2006年10月13日

記念日。

 
「メイク?」
 弟に聞くと、彼は明らかに嫌そうな声音で聞き返してきた。それもそうか。
「そう。誰か教えてくれる人いないかなぁ」
「お袋にでも聞けばー?」
 ピコピコと音が聞こえる所から察すると、ゲームでもやっているんだろう。明らかに上の空なのがわかる。人の気持ちも知らないで。
 なんでか解らないが、お母さんに聞くのは嫌だった。年も違うし。
 ――うーん。誰ならいいんだろう。
 既に学校の友達には当たってみた。が、全てハズレだった。
 とりあえず、癪だったので声と音のした所に枕を投げつけ、あたしは罵声を背中に浴びながら弟の部屋を後にした。
「あー! またコンテニューじゃねぇかよ、アンポンタエ!」
 小さい頃から言われ続けてもう悪口とすら思えなくなってきた単語を聞きながら、あたしは結構冷静だった。
 ――決定的な言葉を言わないだけ、優貴もオトナになったのかなぁ。
 言われたとしても、その場でキレたりする程、気が短いわけではないが。結構真剣に悩んでいるのは確かな気がする。
 ――やっぱり、見えないならメイクなんて出来ないのかなぁ。
 考え込みすぎてか、足を踏み外して階段から転げ落ちるのはその三秒後の事だった。

「痛い……」
「で。家の中で転んで唇切ったのか……」
 ――誰のせいだと思ってるんだ。
 まだ痛む唇を押さえるあたしに、容赦なく呆れた声音が降りかかる。
 私の唯一といってもいい、目の見える友達の家兼行き着けの喫茶店の、あたしの指定席。休日の昼下がりという事もあって、人はそれほど多くなかった。
 ――いや、あたしが悪いんだけどさ。
 昨夜、十段以上の階段を転げ落ちたあたしは見事に全身を階段に打ちつけ、体中にいくつもあざを作った。らしい。特に最初に挫いた右の足首あたりの青あざはかなり大きいらしく、弟の優貴も結構引いていた。いつもならふざけて軽く叩いてくる程度の事はするものだが。お母さんは心配そうに――これはいつもの事だが――顔じゃなくてよかった、湿布を貼ろう、と労わってくれたが。
 未だにずきずきする足首に座りながらそろそろと手を伸ばしかけた所で、更に追い討ちがかかった。
「普通、家の中じゃそうそう転ばないだろ……」
「考え事してたんだよ」
 でも、目の前にいる高校生に言うわけにはいかない。何を考えていたのか。
 結局、お母さんにも話せなかった。
 誰かいないのだろうか。見える女の人で、あたしにメイクを教えてくれそうな――
 目の前の丈の声を上の空に、必死に自分の頭の中の人物ファイルを検索する。
 必死で考えていたので、あたしは気付いていなかった。その人物はおろか、近付いてくる足音すらも。
「あれー? 多苗ちゃん、来てたんだ?」

 あの後、大林さん――喫茶店でアルバイトしている、二つ上の女子大生――に、色々と教わったものの。
 事はそう簡単じゃなかった。
 睫毛をはさんで上を向かせるのは、瞼を挟みそうで中々成功しないし。そもそもファンデーションを塗るのだって、厚すぎるのか薄すぎるのか、よくわからない。リップも、大林さんの反応から、大きくはみ出してしまっているのがわかった。
 そもそも、これは本当にあたしに似合っているのだろうか。
 なけなしのお小遣いをはたいて買ったはいいが、結局それをよいと思ったのは大林さんやお店の店員さんなのだ。たとえ丈が褒めてくれたところで、それも丈の好みに合っていたというだけのことだ。
 あたし個人の絶対的な評価なんて、出す事は出来ない。あたしは、自分に似合うものを選ぶことすら出来ないのだ。
 だって、あたしは、目が見えないのだから。自分の周りにあるものだけでなく、自分自身を見ることだってできないのだ。顔にしても、今まで私のパーツである鼻や耳や唇の形は触ったり、他の人を触らせてもらって分かっていたが、肌の色や目の大きさ、唇の赤みなどは全く分からない。
 無力だ。
 どうにもならないもどかしさに、あたしは自分が寝転んだベッドのマットを、膝で思いっきり蹴飛ばした。
 だが、それも気持ちとは裏腹に、スプリングで自分の体が少しだけ弾んだだけだった。

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posted by みもん at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説ネタ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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